2015年9月26日土曜日

10月のライプニッツ読書会

2進法を考えたのは誰なのか、知ってる?
















日時:2015年10月24日(土)10:00-12:00
『モナトロジー 形而上学叙説
(中公クラシックス)を読みます


場所:みせるま Mise LMA
   東新宿駅から428m

参加費無料(お店にワンオーダーお願いします)

事前にテキストを読んで来られた方がよろしいかと思いますが、そうでなくても構いません。
参加予定の方は、当日直接来ていただいてもよろしいのですが、事前にhakoniwath@gmail.comまで連絡いただけたらありがたいです。

どなたもお気軽にご参加ください。

2015年9月25日金曜日

8、9月のプロティノス読書会

プラトンのイデア論を継承したネオプラトニズム
その思想を読んでいきましょう

聖アウグスティヌスに影響を与えた大哲学者・プロティノス。
彼が遺した思索の書には、何が書かれているのでしょう?
いっしょに読み解いていきませんか?

■プロティノス読書会8月

日時:2015年8月29日(土)10:00-12:00
『エネアデス(抄)<1>
(中公クラシックス)を読みます

■プロティノス読書会9月

日時:2015年9月26日(土)10:00-12:00
『エネアデス(抄)<2>
(中公クラシックス)を読みます


場所:みせるま Mise LMA
   東新宿駅から428m

参加費無料(お店にワンオーダーお願いします)

事前にテキストを読んで来られた方がよろしいかと思いますが、そうでなくても構いません。
参加予定の方は、当日直接来ていただいてもよろしいのですが、事前にhakoniwath@gmail.comまで連絡いただけたらありがたいです。

どなたもお気軽にご参加ください。

2015年8月3日月曜日

7月の井筒俊彦読書会開催報告

7月の井筒俊彦読書会は、東洋哲学 覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学』の中の「第三部 実存意識機能の内的メカニズム」を読みました。



以下、7月の読書会用に主催者が作成したメモです。
(自分用メモなので、誤字等ありますし文章になっていないところもあります。)
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ⅩⅢ
形而上学的意識構造論を離れて、個的主体性・個的実存意識の力動的メカニズムに移る。
アラヤ識が前面に躍り出てくる。
覚…個的実存意識がMからAに進んで自性清浄心が体験され(離念)そのままひるがえってBの方向に向かい、AB両方を綜観する境地
不覚…ひたすらMからBの道を行き現象的現実の中に跼蹐して生きること

ⅩⅣ
不覚を二層に分ける
根本不覚…真如の真相を全一的意識野において覚照する能力がないこと
枝末不覚…妄念の所産である外的世界を真実在の世界と誤認
不覚の形成プロセスは九の段階に分けて記述

ⅩⅤ
始覚…本覚からの促しによって不覚の自覚が生じ覚の状態に戻ろうとする修行の全プロセス
本覚…始覚的修行の終局目標として見られた覚。始覚に対する関係概念。

ⅩⅥ
覚と不覚とのあいだを揺れ動く実存意識のプロセスのの内的メカニズムに、薫習
逆薫習もある

ⅩⅦ

不覚から覚、覚から不覚、どこまでもめぐり、自性清浄心が現成しおわったとき、ブッダ

2015年7月3日金曜日

7月の井筒俊彦読書会

別々の時代と場所で生まれた思想同士に共通しているところがある、それは一体どういったものでしょう?

ジャック・デリダが「巨匠」と呼んだ大哲学者・井筒俊彦。
彼が人生の最後に遺した思索の書には、何が書かれているのでしょう?
いっしょに読み解いていきませんか?



■井筒俊彦読書会第五回目

日時:2015年8月3日(日)
※日にちが8月3日(日)に変更になりました※
    13:00 ~ 15:00

『東洋哲学 覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学
「第三部 実存意識機能の内的メカニズム」を読みます


場所:學問所 雑司寮明哲院
    (鬼子母神堂正門そば

  鬼子母神に守られた築102年の古民家で読書会が開けることを嬉しく思います。















参加費:500円(場所代・コピー代・お茶代・お菓子代)

事前にテキストを読んで来られた方がよろしいかと思いますが、そうでなくても構いません。
本は持参していただけたらありがたいのですが、コピーが必要な方はhakoniwath@gmail.comまでご連絡いただけたら幸いです。
参加予定の方は、当日直接来ていただいてもよろしいのですが、事前にhakoniwath@gmail.comまで連絡いただけたらありがたいです。

どなたもお気軽にご参加ください。

6月の井筒俊彦読書会開催報告

6月の井筒俊彦読書会は、東洋哲学 覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学』の中の「第二部 存在論から意識論へ」を読みました。



以下、6月の読書会用に主催者が作成したメモです。
(自分用メモなので、誤字等ありますし文章になっていないところもあります。)
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分析の中心が「真如」から「心」に移るにともない、考察の重点は、存在論から意識論
分節が同時に存在分節でもあり意識分節でもあるように、『起信論』のなかで存在論と意識論は分かちがたく絡み合っている
本性的に唯心論の『起信論』は思想の具体的展開の場において意識の側に力点が置かれている「衆生心こそマハーヤーナの本体である」

「心」を「意識」という後に移して論を進めてきたが、両社に大きな意味の食い違いがある。それを利用して間文化的意味論の実験を試みようとする。(「心」の意味領域を「意識」の意味領域に接触させ、両者のあいだに薫習関係を醸成しようとする。)
意識(心)…全貌は、『起信論』そのもの。重要な点は、超個的な意識一般であるということ。
意識…客体性と対立した意味での主体性、外的事物を感覚・知覚的に認知し意志すると同時にそれを覚知する内的主体

存在論から意識論へ1部で確認したことを読み直す
A領域(心真如)は無の意識…否定的消極性においてのみ理解してはならない。有意識への限りなき可能態
 仏心
B領域(心生滅)
 衆生心
  衆生心に双面性がある。この二つの意味は融合し一体化する。
   ・Ⅶの超個的な意識一般
   ・平凡人の普通意識
仏心すなわち衆生心

絶対無分節態の意識が分節態の意識に転換するだけだが、転成する意識の中心軸としてAの本体なるものを想定し、「自性清浄心」と名付ける。ABに転成しても本体だけは無傷で残る。
三大
 体大…真如そのものは現象的存在次元においても根源的本性を失わない
 相大…本体そのものはA領域B領域を通じ不変不動だが、現象態における真如にはA領域には見られなかった様々な性質・属性が帯びて現れる(自己分節)

『起信論』は徹底してB領域の本質的虚妄性を説いておきならが、を「如来蔵」と呼んで積極的・肯定的に評価する。全ての分節的「有」を真とする。
一つ一つの中に心真如の本体が存立している。

B領域が自己矛盾的性格を露呈したように、B領域も自己矛盾的双面性を示す。
人間は誰にも妄心があって時々刻々に存在を分別し、限りない有を刻みだして止まない。それらの事物はどの一つを持ってきても真如そのものとはぴったり合わない。だから真如の自性を歪曲して提示する意味分節の単位を全部一挙に払拭するために「空」という概念が必要になる。存在切り出し作業を止めてしまうならば、空ずべきものも、空そのものすら初めからそこには無い。本来的には、空そのものも無いというまさにそのことが、ほかならぬ空なのである。

A領域とB領域の関係はきっぱり区画して固定できるようなものではない。もともとBAの自己分節なのだし。この両者の本然的相互転換の場所を『起信論』はアラヤ識と
唯識派とのアラヤ識との違い
 ・唯識派ではアラヤ識はB領域のみに関わるものである。真妄和合識ではなく、純然たる妄識。生々流転の在り方だけが問題なのであって、不生不滅の実在性は問題とされない。
 ・深層意識性を強調するか否か。唯識においては意識の最下底、深層意識。


コルバンの「こころ」は「観想意識の主体性」であり、そこから見た世界が「イマジナルな世界」、すなわち〈幽微な身体〉、霊性的次元における感覚界である。

〈一者〉から発出する非物質的光は徐々に滅してゆき,ついには闇としての物質に至り,その過程で〈ヌース〉〈世界霊魂〉〈人間霊魂〉が発生してくると説く。

ヌースをプロティノスは「一なるもの」の映像であるという。それは「一なるもの」から出てくるのであるが、「一なるもの」の一部であるとか、それの創作したものという意味ではない。太陽が光を発することによって見えるものとなるように、「一なるもの」が自ら輝くことによって、自らを見えるものとなるようにさせる過程をあらわすといってよい。三位一体の第三のもの「霊魂」は、ヌースよりは低次であるが、そこからすべての事物が生まれてくる源となる。この世界に実際に存在すると見られている事物や生き物、あるいはそれらが織りなす生成や変転は、すべてこの霊魂の働きによるのである。いいかえれば、個別的な事象に対応する個別的なイデアといえるかもしれない。

2015年5月24日日曜日

5月の井筒俊彦読書会開催報告

5月の井筒俊彦読書会は、東洋哲学 覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学』の中の「第一部 実存意識機能の内的メカニズム」を読みました。



以下、5月の読書会用に主催者が作成したメモです。
(自分用メモなので、誤字等ありますし文章になっていないところもあります。)
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東洋哲学全体の共時論的構造化のための基礎資料の一部として『大乗起信論』をとりあげる。

『起信論』の思惟展開は二岐分離的
    「真如」
・無分割の「空」←→一切の事物の本体≒無明
・真如←→妄念
この二重構造を同時に見通すことのできる人が『起信論』の理想とする達人
    「アラヤ識」真如がいままさに無から有になろうとする境位が『起信論』のアラヤ識
現象的事物の世界は妄象←→真如の自己開顕
不生滅(非現象性)と生滅(現象性)と和合して一に非ず異に非ず(同一でないが相違するわけでもない)という意味は『起信論』はアラヤ識を和合識と名付ける。

意識と存在のゼロポイントに『起信論』は「真如」という仮名を用いる。
「真如」はあるがままを意味する。「真」は虚妄性の否定、「如」は無差別不変の自己同一性。

意識の分節化は存在の分節化で分節の超越・言葉では語り得ないものを各文化で

現象的事物の次元だけを唯一の実在世界だと思い込むなら、B空間は妄念の所産でA空間だけが真如。
A-   B双面的な全体こそ全一的真実在としての真如であることを覚知するなら、B空間は現象的事物として働く真実在、形而下における形而上的なるものになる。

現象的境位にありながら己の本性を損失することなく存立する真如の側面を『起信論』は「如来蔵」と呼ぶ。

2015年4月30日木曜日

4月の井筒俊彦読書会開催報告

4月の井筒俊彦読書会は、コスモスとアンチコスモス―東洋哲学のために』の中の「創造不断―東洋的時間意識の元型」を読みました。


 
以下、4月の読書会用に主催者が作成したメモです。
(自分用メモなので、誤字等ありますし文章になっていないところもあります。)
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「創造不断」イブヌ・ル・アラビーの論の鍵概念。              時間論以前に根源的直感がある「有」と「無」の間の不断の振幅、宇宙的生命のリズム。時間的←『コーラン』の念誦「海印三昧」              「一切一挙」。空間的無時間的。←「止観」


「新創造」の解釈              外的解釈:終末の日に起こる復活              イブヌ・ル・アラビーの内的解釈:現在の存在論的事態


イブヌ・ル・アラビーの「新創造」思想の先駆者としてハマダーニーA(理性の領域):存在の光に照らされてその都度そのものが特別な顔の向け方をし、              次の瞬間には無に帰して別の新しい関係がこれにとって代わるB(理性の向こう側の領域):すべてのものが神と「ともにある」という無時間的空間性。前後関係が無い。


アシュアリー学派神学に最初の表現を見出した時間元型は、イブヌ・ル・アラビーの思惟を通過し、モッラー・サドラーを経て現代に及ぶ。


ラヒージーが「本質的可能性」というスコラ哲学的概念を使って、「新創造」を解釈しようとした。


宇宙的人間の「心臓」の脈搏と神の自己顕現(絶対無分節者の自己分節)活動の脈搏が同化しきったとき、そこに生起する事態を「創造不断」と呼ぶ。「創造不断」観念の形成には観想主体の我が導入されなければならなかった。



神がいない世界の時々刻々として道元の「有時経歴」:時間が存在として存在が時間として現成する。灰が薪に戻ることは不可能。だけど灰が後、薪が先ではない。一瞬一瞬のつらなりに前後関係があるが、薪は刻一刻新しい薪であり、非連続的連続。冬が春になるとは言わないのと同じ。これは経験的事態。観想意識で形而下世界を見たら、創造不断で前後際断的瞬間の非連続的連続。


観想意識での時間の第二の見方。時々刻々は創造不断の表面的形式。内部構造を知るために時間を超えたところにいかなくては。存在が時間なので、無時間ではない。非時間。時間のゼロポイントと時間の完全展開。


中心点と周辺部との間に不断に繰り返される存在エネルギーの脈動には時間性がある。この時間性と無時間性を一に合わせるところに観想意識は非時間を見る。現成する一瞬一瞬はその度ごとに現在である。過去も未来も現在に融入することによってはじめて過去として未来として意味づけられる。


唯識の時間論:種子生現行、そして種子は刹那滅。種子a1からA1が浮かび、A1は刹那滅するときに残影をアラヤ識にとどめていく。それがa2を生み出し、それが表層意識にA2となって顕現する。だから時々刻々。華厳の時間論:挙体生起は無時間的だが相即相入は時間的。事事無礙は時時無礙。


道元の時間論は時間と存在が絶対不可分。一物一物の有時でありながらしかも同時に全存在世界の有時であることを、道元は「尽時」「尽有」という。有時に経歴の功徳あり。いはゆる、今日より明日に経歴す。今日より昨日に経歴す。今日より今日に経歴す。明日より明日に経歴す。時もし一任せば、間隙ありぬべし。時は飛去し過ぎていく面もときにはある。だが飛去しない面もある。三頭八臂は、きのうふの時なり。丈六八尺は、けふの時なり。しかあれども、その昨今の道理、ただこれ、山のなかに直入して、千峰万峰をみわたす時節なり。すぎぬるにあらず。三頭八臂も、すなはち、わが有時にて一経す。彼方にあるにたれども而今なり。丈六八尺も、すなはち、わが有事にて一経す。彼処にあるににたれども而今なり。吾有時(我=存在=時間)上山渡河の時が球殿朱楼の時を呑み込んでしまう境位、そこでは二つの時は一つの時である。だが、上山渡河の時が球殿朱楼の時を吐き出す境位では、二つの時は、あい前後する別々の二つの時。有時は、その内的構造において、常に、こういう二重性をもつ。そして有時をこのような二重性において実現させるもの、それが我なのである。