2015年3月29日日曜日

3月の井筒俊彦読書会開催報告

3月の井筒俊彦読書会は、コスモスとアンチコスモス―東洋哲学のために』の中の「事事無礙と理理無礙ーー存在解体のあとーー」を読みました。

しばらくは井筒俊彦先生の著作を読んでいく予定ですが、そのうち、プロティノス、華厳経、『単子論』、ソシュール、イブンアラビー,
『正法眼蔵』、アンリ・コルバンなど、井筒先生の著作によく名が出てくる文献についても読んでいきたいと思います。




以下、3月の読書会用に主催者が作成したメモです。
自分用メモなので、誤字等ありますし文章になっていないところもあります。
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「事事無礙」は東西の別を越えた普遍的思想パラダイム
              ・イブヌ・ル・アラビーの存在一性論 ・プロティノスの脱我的存在ヴィジョン
              ・荘子の「混沌」思想 ・ライプニッツのモナドロギー など

わけてもプロティノスと華厳が著しく類似している
              ・普遍的な根源的思惟パラダイムである
              ・プロティノスが華厳思想に接触してたのではないか
                            ・華厳経がイランの影響を受けているのでは 西域で編纂 法蔵ソグド人
                            ・アレクサンドリアに仏教コミュニティーがあった

プロティノスを通してイスラーム哲学にも中世ユダヤ哲学にも華厳が影響している可能性
              ・カッバーラーは光のメタファーの形而上的展開
              ・スーフィズム、イブン・アラビーはプロティノスの影響を受けている
               スフラワルディーの「光の光」が毘盧遮那仏、流出論の影響受けてる


「事」…それぞれ独自の本質があって自立し混同を拒む

東洋的思惟形態の一つの重要な特徴は、事物として成立させる相互間の境界線(「封」や「畛」)を取り外して事物を見る。禅では「無」。華厳哲学では「理」や「空」。無差別性の空間。
はずして見ながらはめて見る、この二重の「見」を通じて、実在の真相が始めて顕になる、と考えるのが東洋的。
 ・理事無礙、スーフィズムの「複眼の士」、『老子』の「妙」と「徼」の両側面を見る人


東洋哲学は多くの場合、「無」に相当するものを導入してくる
それぞれの自立性を仏教では「自性」という。「空」は「自性」的構造の中核の破壊
仏教思想のコンテクストでは「自性」は実在するのではなく、「妄念」の所産にすぎない


存在が空化「無礙境」するには意識にも空化が起こる「無礙心」。「心境無礙」。

「分別心」や「妄念」はどこから起こってくるのか
華厳も竜樹以来の伝統に従って、言語を「妄念」の源泉と考える。
「万物唯識」一切の存在者は、アラヤ識の生み出すところである。
アラヤ識:深層意識的意味エネルギーは、度合の違う凝固性の差異によって区切られている

無垢識 アラヤ識が空化された深層レベル。言語道断の境。


無化されながら有化する。無自性的に生起してくる
仏教の「真空妙有」:空に妙有の側面と真空の側面がある。華厳哲学は妙有側面を押し出す
              ・老子のふいご
              ・イブン・アラビーの「秘めた宝」

華厳の「理」…有に転換した空。絶対無分別は無限の文節可能性。空のこのような現れ方を華厳哲学では「性起」という。


波が水面上で分節差別されていても、水それ自体は常に平等一味
『ヴァガバッド・ギーター』「(かのブラフマンは、それ自体は)無分割であるが、、、、

「性起」を理解する上で華厳哲学的に大切な点は、「挙体性起」であること。一微塵であっても「理」の存在エネルギーの全投入である。

理はなんの障礙もなしに事のなかに透入して、結局は事そのものであり、反対に事はなんの障礙もなしに理を体現し、結局は理そのものである。これが華厳哲学で「理事無礙」。

「事」「理」「理事無礙」に「事事無礙」を加えて、四法界とか四種法界という。法蔵の後継者の澄観が。

「法界」は存在の根拠、存在論的プリンシプル、といった意味。

素朴実在論の「事」と、「自性」を喪失しながら尚ものであるようなものとして現れてくる「事」。


ものに自性はないけれど、ものとものとの間には区別ある。
すべてのものが全体的関連においてのみ存在している。
理が事に自己分節するというのは、ものが突然出現することではなく、存在エネルギーの遊動的方向線が現れて、そこに複雑な相互関連の網が成立すること。ただ一つが動いてもそれだけで全体の構造が変わってくる。一瞬一瞬に違う形が現成する。一つのものは他の一切のものとの相互関連においてのみそのものであり得る。
Aの内的構造そのもののなかに他の一切のものが隠れた形で残りなく含まれている。「縁起」すべてのものが互いに依りかかり依りかかられつつ現成する。
同じ一つの存在論的事態を、性起は理事無礙的側面から縁起は事事無礙的側面から眺めるというだけの違い。
因果律的アリストテレス的思惟パターンとは性質を異にする
無中心、どこでも中心、全体が中心
相互滲透性

事事無礙二つのイマージュ
・鏡灯
・主伴
シニフィアンは違っても、シニフィエの方はいつも同じ。A=(a,b,c,d,e,f,g…)
我々の認識能力は「有力」的側面だけに焦点を絞るようにできているが、「複眼の士」の目には常に必ずいかなるものをも「有力」「無力」両側面において見ることができる。


「理理無礙」を加えてイブンアラビーの存在一性論を華厳的に読み替えてみる
・ザート:絶対無分節的境位の神自体 仏教思想の妙有
・「神自体」の最後の深層をなすこの神の無をイブンアラビーは「玄虚」と呼んだ。 真空と妙有は表裏一体
・イブンアラビーにおいて存在無化のプロセスは人間的認識主体の側における意識の脱自的深化のプロセスと厳密に対応する。この点でも存在一性論は仏教と同じ。


本源的流動性をイブンアラビーは「神の息吹き」と呼び、その実相において見ることができるようになるためには、凡夫の「夢」から覚めなければならない。そのためにスーフィー的観想道に踏み入り、最後に「事事無礙」に転換し「事」の意味に二重性が生じてくることも同じ。ただしそこに至るまでの体験的、思想的経路がいささか違う。
流動化された意識に数かぎりない「元型」が現れてくる。現象的存在分節に先立つ前現象的、第一次的存在分節。(イブンアラビーは「有・無境界線上の実在」とか「神名」とか呼んでいる。)

神名論:「神自体」まだなんの規定も受けてない。具体的な神はいろいろな属性を備えている。その「属性」が「神名」と呼ばれる。

元型はそれぞれ自己同一性を保ちつつ、互いに透過を許しあう。

すべての元型が渾融して一になったところに「アッラー」という絶対的「神名」が現れてくる。限りない多を内に秘めた一。分節直前の無分節。仏教の「妙有」。華厳の「理法界」。極限的には「無」。「玄虚」。


華厳では、波が「理」の「事」的分節。水と波の関係が「理事無礙」。波と波の関係が「事事無礙」。華厳でも「理理無礙」を語ることがあるが、水と水が無礙といってもトートロジー。
存在一性論は「理」に二階層ある。イブンアラビーは「理理無礙」に重要性を認めている。


華厳の説く主伴の論理、有力無力と同じ事態がここにも見られる。ABC…は神名として表面に出ている形ではABとも違うしCとも違う。しかしその意味内実においてはBCとまったく同じ。


イブンアラビー独特の「顕現」説で申すと「事」的世界は神の二次的分節態であって、「事」の現出以前に、元型的多、個別的「理」の階層が成立している。
時間的には世界は一瞬ごとに新しい。刻々に移り変わるすべての事物は、絶対的一者の千差万別の顕現形態にすぎない。





脱我的存在ヴィジョン
あちらでは、すべてが透明で、暗い翳りはどこにもなく、遮るものは何一つない。あらゆるものが互いに底の底まですっかり透き通しだ。光が光を貫流する。

イブン・アラビー
この世界はすべて一者の自己顕現(tajallī)として理解される。すなわち、この世界には自存している「無限定存在」(wujūd mulaq)である神アッラーフと、それそのものでは非存在であるがアッラーフに依拠する事で初めて存在し得る「被限定存在」(wujūd muqayyd)である被造物に大きく分けられる。アラビーはこれに加え、それらのいずれとも異なる第三要素として「真実在の真実性(aqīqa al-aqā'iq)」を想定する[3]。万物は見かけ上は全く違うように見えるが、実は全て神の知恵の中にある1形態に過ぎず、本質的には同一の物体であるとするのが「存在一性論」(Wada al-wujūd)である。人間とは神が持つ全ての属性の集合体によって構成されており、その中でもそれを自覚した「完全人間説」(insān kāmil)と呼ぶべき人が預言者であり、ムハンマドはその最後の人物であるとする「完全人間説」(insān kāmil)によって構成されており、人間は元から神の一部である以上、心や意識に苦痛をもたらす禁欲的な探求を採ることは無意味であると唱えたのである。
宗教と信仰の言葉では「神」と呼ぶべきものを、イブン・アラビーは哲学用語の次元で「存在」(wujūd)と呼ぶ。これは現実にこの世に存在している「存在者」や「現実存在」(mawjūd)とは全く異なる原理存在であるとする。そしてその存在の究極位をプロティノスの「一者」と同じように「存在の彼方」に置くと同時に、それが全存在世界の太源であると考えた[5]。イブン・アラビーの「存在」は、無名無相、つまり一切の「…である」という述語を受け付けない。「神である」とも言えない。なぜなら神以前の神は、普通の意味の神ではないからである[6]。「存在」(wujūd)には、「自己顕現」(tajallī)に向かう志向性が本源的に備わっており、「隠れた神」は「顕れた神」にならずにはいられない。無名無相の「存在」が「アッラー」という名を持つに至るこの段階は、ヴェーダーンタ哲学における意味分節する以前の全体存在である「上梵」から言葉によって言い表すことができる経験的世界である「名色」へと移り変わる段階にあたる、と井筒俊彦は解説する

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中村元がエネアデスと華厳経の類似性を論文にしているらしい

2015年3月4日水曜日

3月の井筒俊彦読書会

第一回目の井筒俊彦読書会を開催します。

日時:2015年03月22日(日)
    11:00 ~ 13:00


場所:東京・雑司ヶ谷「がんばれ!子供村」 2F コミュニティスペース
    (池袋駅から徒歩10分、雑司ヶ谷駅・鬼子母神前駅から徒歩7分です。

参加費無料です。

今回は、『コスモスとアンチコスモス―東洋哲学のために』の中の「事事無礙と理理無礙ーー存在解体のあとーー」を読みます。



事前にテキストを読んで来られた方がよろしいかと思いますが、そうでなくても構いません。
参加予定の方は、当日直接来ていただいてもよろしいのですが、事前にhakoniwath@gmail.comまで連絡いただけたらありがたいです。

主催者自身、特別な専門知識を有する身ではないので、どなたもお気軽にご参加ください。

これから1年間、毎月、東京周辺で、井筒俊彦読書会を開催する予定でおります。