2015年7月3日金曜日

7月の井筒俊彦読書会

別々の時代と場所で生まれた思想同士に共通しているところがある、それは一体どういったものでしょう?

ジャック・デリダが「巨匠」と呼んだ大哲学者・井筒俊彦。
彼が人生の最後に遺した思索の書には、何が書かれているのでしょう?
いっしょに読み解いていきませんか?



■井筒俊彦読書会第五回目

日時:2015年8月3日(日)
※日にちが8月3日(日)に変更になりました※
    13:00 ~ 15:00

『東洋哲学 覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学
「第三部 実存意識機能の内的メカニズム」を読みます


場所:學問所 雑司寮明哲院
    (鬼子母神堂正門そば

  鬼子母神に守られた築102年の古民家で読書会が開けることを嬉しく思います。















参加費:500円(場所代・コピー代・お茶代・お菓子代)

事前にテキストを読んで来られた方がよろしいかと思いますが、そうでなくても構いません。
本は持参していただけたらありがたいのですが、コピーが必要な方はhakoniwath@gmail.comまでご連絡いただけたら幸いです。
参加予定の方は、当日直接来ていただいてもよろしいのですが、事前にhakoniwath@gmail.comまで連絡いただけたらありがたいです。

どなたもお気軽にご参加ください。

6月の井筒俊彦読書会開催報告

6月の井筒俊彦読書会は、東洋哲学 覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学』の中の「第二部 存在論から意識論へ」を読みました。



以下、6月の読書会用に主催者が作成したメモです。
(自分用メモなので、誤字等ありますし文章になっていないところもあります。)
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分析の中心が「真如」から「心」に移るにともない、考察の重点は、存在論から意識論
分節が同時に存在分節でもあり意識分節でもあるように、『起信論』のなかで存在論と意識論は分かちがたく絡み合っている
本性的に唯心論の『起信論』は思想の具体的展開の場において意識の側に力点が置かれている「衆生心こそマハーヤーナの本体である」

「心」を「意識」という後に移して論を進めてきたが、両社に大きな意味の食い違いがある。それを利用して間文化的意味論の実験を試みようとする。(「心」の意味領域を「意識」の意味領域に接触させ、両者のあいだに薫習関係を醸成しようとする。)
意識(心)…全貌は、『起信論』そのもの。重要な点は、超個的な意識一般であるということ。
意識…客体性と対立した意味での主体性、外的事物を感覚・知覚的に認知し意志すると同時にそれを覚知する内的主体

存在論から意識論へ1部で確認したことを読み直す
A領域(心真如)は無の意識…否定的消極性においてのみ理解してはならない。有意識への限りなき可能態
 仏心
B領域(心生滅)
 衆生心
  衆生心に双面性がある。この二つの意味は融合し一体化する。
   ・Ⅶの超個的な意識一般
   ・平凡人の普通意識
仏心すなわち衆生心

絶対無分節態の意識が分節態の意識に転換するだけだが、転成する意識の中心軸としてAの本体なるものを想定し、「自性清浄心」と名付ける。ABに転成しても本体だけは無傷で残る。
三大
 体大…真如そのものは現象的存在次元においても根源的本性を失わない
 相大…本体そのものはA領域B領域を通じ不変不動だが、現象態における真如にはA領域には見られなかった様々な性質・属性が帯びて現れる(自己分節)

『起信論』は徹底してB領域の本質的虚妄性を説いておきならが、を「如来蔵」と呼んで積極的・肯定的に評価する。全ての分節的「有」を真とする。
一つ一つの中に心真如の本体が存立している。

B領域が自己矛盾的性格を露呈したように、B領域も自己矛盾的双面性を示す。
人間は誰にも妄心があって時々刻々に存在を分別し、限りない有を刻みだして止まない。それらの事物はどの一つを持ってきても真如そのものとはぴったり合わない。だから真如の自性を歪曲して提示する意味分節の単位を全部一挙に払拭するために「空」という概念が必要になる。存在切り出し作業を止めてしまうならば、空ずべきものも、空そのものすら初めからそこには無い。本来的には、空そのものも無いというまさにそのことが、ほかならぬ空なのである。

A領域とB領域の関係はきっぱり区画して固定できるようなものではない。もともとBAの自己分節なのだし。この両者の本然的相互転換の場所を『起信論』はアラヤ識と
唯識派とのアラヤ識との違い
 ・唯識派ではアラヤ識はB領域のみに関わるものである。真妄和合識ではなく、純然たる妄識。生々流転の在り方だけが問題なのであって、不生不滅の実在性は問題とされない。
 ・深層意識性を強調するか否か。唯識においては意識の最下底、深層意識。


コルバンの「こころ」は「観想意識の主体性」であり、そこから見た世界が「イマジナルな世界」、すなわち〈幽微な身体〉、霊性的次元における感覚界である。

〈一者〉から発出する非物質的光は徐々に滅してゆき,ついには闇としての物質に至り,その過程で〈ヌース〉〈世界霊魂〉〈人間霊魂〉が発生してくると説く。

ヌースをプロティノスは「一なるもの」の映像であるという。それは「一なるもの」から出てくるのであるが、「一なるもの」の一部であるとか、それの創作したものという意味ではない。太陽が光を発することによって見えるものとなるように、「一なるもの」が自ら輝くことによって、自らを見えるものとなるようにさせる過程をあらわすといってよい。三位一体の第三のもの「霊魂」は、ヌースよりは低次であるが、そこからすべての事物が生まれてくる源となる。この世界に実際に存在すると見られている事物や生き物、あるいはそれらが織りなす生成や変転は、すべてこの霊魂の働きによるのである。いいかえれば、個別的な事象に対応する個別的なイデアといえるかもしれない。